もう5月だった。妊娠6か月から7か月に差し掛かるぐらいだった。
3月までは死にそうなほど仕事に奔走し、妊婦であることを忘れて朝帰りすることもあったが、4月早々に多忙だった仕事を終え、
悠々と自宅で過ごしていた。
そんな中、常に頭によぎる思いがあった。
「清平40修に参加しなきゃ」
本当なら妊婦40修は妊娠5〜6か月に参加するものだった。
しかし、今回はなかなか乗り気にならなかった。
一つの理由は、長男の存在である。
長男をどこに預けるのか?
おととし、やむをえない事情で婦人40修に参加したときは、主体者に長男の保育園の送り迎えをお願いした。
しかし、それが本当に大変だったみたいで、主体者はもう2度とひとりで長男の面倒を見たくないような感じだった。
今年から40修期間中、清心幼稚園に預けられるようになったけれども、40日間ずっと子供を24時間保育で預けっぱなしというのも、子供の心によくない影響があるのではないかと思うし…。
特に2人目の出産の前に上の子をよく愛しておかないと、愛の減少感を強く感じさせてしまうから、出産前によく遊んであげたい思いが強かった。
もう一つの理由は、40修に対する心情のマンネリ化である。
40修には長男出産の際に2期半、婦人40修1期参加していたが、いまいち内的勝利感がなかった。
結局40修に参加しても変われないのではという思いがあった。
そんな理由で決意できずにいると、ある日、夢に大母様が出てこられた。
夢の詳細は覚えていないが、私の問題に対して、大母様がそれをよくごらんになり、責任を持ってくださろうとしているかのようだった。
さらに、実生活上においても、霊的問題がいかに大きいかということを見せつけられることがあり、ついに決意せざるを得なくなった。
主体者に、「40修行こうと思うけど大丈夫?」と持ちかけると、「いいよ。どうせだめって言っても聞かないでしょ。」と言われた。
教会に対して反対黙認中の実家の母にも連絡した。「来月から1ヶ月半くらい韓国に行ってくるね。」というと、「わかったわ。どうせあなたはだめって言っても聞かないから。」と主体者と同じ言葉が返ってきた。
そして、おもむろに「また韓国に出産しに行くんじゃないでしょうね?」と質問された。
私は全くそんな気はなかったので、「今回は絶対帰ってくるよ。」と断言した。
前回の出産が帝王切開だったので、清心病院だったらまた帝王切開になってしまう。
日本で、自然分娩してもらえる産院を探して通っていたので、そこで分娩予定だった。
今回は必ず1期で帰ってくる気満々で、帰国予定日翌日に行われる保育園の夏祭りの出席予定表には「参加する」と記入し、
帰国予定日翌週に行われるしまじろうのコンサートのチケットまで購入してしまった。
6月1日、私は長男と二人で日本の地を後にした。
今回は、長男も一緒なので、とにかく少しでも交通費を浮かせようと、成田乗り継ぎの格安チケットを買ってしまっていた。
出発は午前でも、仁川到着は夜の9時過ぎ。
さすがにこの時刻から清平に向かうのは難しい。しかも子連れで。
あらかじめ空港近辺の格安ホテルを予約していたので、ホテルの送迎の車を電話でお願いした。
3歳の長男は、慣れないホテルにすごく不安がったが、疲れていたのでシャワーを浴びるとすぐにベッドで眠りに落ちて行った。
翌朝、長男を連れて、外をぶらぶら散歩した。
今日から幼稚園に預けて40日間会えなくなるなんて、まだ信じられなかった。
日本にいるときから、長男には、「清平行ったら、お母さんが修練を受けている間、幼稚園にいくんだよ。しばらくお父さんとお母さんに会えなくなるんだよ。」と言い聞かせていた。
彼は、「幼稚園いやだ」と言い続けていたが、それが今日からだなんて思ってもいなかっただろう。
昼前にホテルの送迎の車で空港へ行き、世一のバス券を買った。
バスが出るまで時間があったので、長男と一緒に空港の中をぶらぶらした。
長男は電車が大好きなので、空港鉄道(A'REX)の駅まで行ってみた。
改札の前でうろうろしていると、駅員さんが声をかけてきたので、片言の韓国語で「電車を見たい」と言ったら、ホームまで入れてくれた。
電車がホームに止まった時、駅員さんは電車の中まで見せてくれた。
長男も、大好きな電車を見ることができて大喜びだった。
昼過ぎにバスは出発し、4時頃には清平に到着した。
地下2Fで40修参加申込書を急いで書き上げ、提出すると、子供の荷物を担ぎ、長男の手を引いて正門に向かった。
清平職員に聞いたところ、清心幼稚園は正門を出て、青少年センターに行く坂道の途中にあるとのことだった。
長い道のりだった。
長男に「これから幼稚園に行くんだよ。」と言ってしまったので、長男の足はなおさら重たかった。
途中、長男は躓いて転び、激しく泣き出したが、なんとか引っ張って歩き続けた。
ようやく橋を越えて幼稚園が見えてきた。
幼稚園の園庭には楽しそうな遊具が見えたので、「あそこに滑り台が見えるよ。」というと、長男は少し元気を取り戻して、自分から歩いてくれるようになった。
幼稚園の建物に入ると、職員室に誰もいなかったので、廊下の突き当りの部屋をのぞいてみた。
そこでは子供たちが遊んでいて、日本人の姉妹が2人で面倒を見ていた。
1人は知り合いの姉妹だった。
手続きを済ませる間、長男は他の子供たちと混ざって一緒に遊んでいた。
これはいい感じだと思ったが、別れる前に最後のあいさつをしにいくと、長男はワーッと泣き始めて私の足にしがみついた。
「僕もお母さんと一緒に行きたい!」
私も涙が流れてきた。
「ちょっとしたら迎えに来るからね。」
長男の手を振り切って、保育園の園舎を出て、修練所への道をひとり、歩いて戻った。
私が参加することになった40修は115期だった。
この40修は、普段の40修と大きく異なることがあった。
それは、日本のUC企業グループの社長たちが50人近く、お母さまの指示で参加していたのだった。
私の主体者の勤めている会社の社長も参加していた。
このことが、後々自分に大きな影響を及ぼすとは、思いもよらなかった。
今回の40修は、犠牲にしてきたものが大きいだけに、なんとか自分の課題を勝利して持ち帰りたいという思いが強かった。
第一目的は胎児の霊分立だが、自分が変わらなければ霊はたくさん分立できないし、胎児にも自分の問題が影響することは明らかだった。
これまでの40修で勝利感を持てなかったのは、目標も復帰できたものもすべてを曖昧にしてきてしまったためだった。
今回はその反省を生かし、祈祷ノートを用意し、毎日の目標とそれに対する結果、復帰した心情・霊的内容・啓示など、逐一書き記していった。
これは結構効果があった。
たいてい40修も2週間過ぎると中だるみして、何を祈ってよいのかもわからなくなってくることが多かったが、ノートを見返せば、最初の動機に立ち返るきっかけとすることができた。
以前に参加した40修ではスケジュールが大変だったので、なかなか毎日ゆっくりノートに書いて整理する時間はとれなかったので、そのようにできること自体恵みである。
そのように毎日を過ごす中で、はやく長男を迎えに行きたい一心から、一日が終わるたびごとにスケジュール表の日付を塗りつぶしていった。
幼稚園に電話をすれば、子供の様子を教えてもらえた。
また、週末などの自我省察の時間には会いに行くこともできないわけではなかった。
しかし、子供に会うと、せっかく幼稚園の環境に慣れてきた子供が、取り乱してもとの状態に戻ってしまうことが多い。
そのため、幼稚園に電話すると、先生から「まだ会わない方が良いかも」と言われるのだった。
40修がはじまって3週目ぐらいに一回、幼稚園の先生に許可をもらい、子供の昼寝時間に寝顔だけ見に行った。
長男は、クーラーの効いた暗い部屋で友達と一緒にごろ寝していた。
顔を覗き込むと、眠りが浅かったみたいで、むくっと起き上がってぼーっとしていたが、すぐに私に気がついた。
「お母さんだ。」
私は、彼の声を聞けてうれしかったが、大声で泣き出すのではないかと思いひやひやした。
彼の声は、クーラーのせいか、少し枯れていた。
「お母さん、こっち来て。おもちゃあるんだよ。」
彼は、意外と冷静で、泣き出すような気配はなく、私をみんなが寝ている部屋から別の部屋へ連れ出した。
「見て見て。おもちゃあるんだよ。」
彼は、幼稚園のおもちゃを持ってきて見せてくれた。
私が、「元気だった?」と言って彼を抱きしめると、「お母さん、会いたかった。」と言って、彼も顔をすりつけてきた。
しかし、そんな時間もつかの間だった。
長男を引き離せなくなることを心配して、先生が声をかけてくれた。
「Kくん。もうお母さん行かなきゃいけないから、バイバイしようか。もうちょっとお昼寝しよう。」
彼は私にしがみついて、「いやだ、お母さんと一緒に行く!」と泣きだした。
先生は、激しく泣く彼を私から引き離して抱っこしてくれた。
私は、「よろしくお願いします。」と言ってあわてて幼稚園を後にした。
それからもう40修の期間中に彼に会いに行くことはやめた。
40修に参加すると、一緒に参加している兄弟姉妹たちから得られることは大きい。
神様が、兄弟姉妹たちを通して教えてくださろうとしていることを何度も実感した。
あるとき、仲良くなったお姉さんが情心苑の中で祈願書を書いているのを見かけた。
わたしはこれまで祈願書を書いたことはあったけれど、一度もその効能を実感したことがなかったので、祈願書に対しては常に消極的だった。
あとで、そのお姉さんに「祈願書書いてるんですね。」と声をかけてみると、いろいろと祈願書の証詞を教えてくれた。
「40修期間中に祈願書を書くと全然霊の抜け方が違うよ。書くのだったら早く書いた方がいいよ。」とアドバイスされた。
そのお姉さんは、114期に途中から参加していたので、115期の半ばぐらいで40修を終了したのだった。
しかし、清心幼稚園に預けていた2人の子供を連れてきて、その翌週の2日修までずっと延泊して修練を受けていた。
そのお姉さんにどうして延泊するのか聞いてみた。
一つは子供の霊分立のためだが、もう一つは、40日間で胎児と自分に憑いた霊を取りきれないのは確かなので、少しでも長く滞在して精誠を尽くしたいとのことだった。
また、40修が終了した後、できれば2日修まで出て帰った方がより霊が整理されるとのことだった。
私は40日終わったら、即座に帰ることしか考えていなかったので、そのお姉さんの話を聞いていろいろ考えさせられた。
40修は平日に終了するので、せめてその週末まで延泊して2日修まで出るべきなのだろうか?
しかし、どうしても帰国日は変更したくなかった。
私は、延泊しない分、尽くせる精誠として、祈願書を書くことにした。
所持金はたくさん残っていなかったが、決意して、日本事務局で、祈願書を3枚もらってきた。
1枚は日本で困っている姉妹のために、1枚は自分の課題のために書いた。
そして最後の1枚はおなかの中の子のために、以下の内容を書いた。
『生まれてくる子供に一番ふさわしい名前が与えられるように。罪と堕落性と関係のないところで生まれてこられるように』
ちょうど祈願書を書く前に、講話で名前の重要性を聞かされていた。
今回は清心病院で産まないつもりなので、大母様に名前を付けてもらえないから自分たちで決めるしかない。
それが導かれるように名前のことを書いたのだった。
祈願書を書いた日の夜の役事後は、どっと疲労感を感じた。
たくさん霊が抜けた感覚だった。
目には見えないけれど、やはり祈願書には効果があることを初めて実感できた。
40修も、あと残すところ1週間ほどとなった。
自然と心が浮足立つ。
もっと集中して、最後、何か復帰して帰らなければと思うけれど、なかなか緩んだ心を引き締めるのが難しかった。
さらに、臨月に入るのも間近で、体もだんだんつらくなってきて、妊婦部屋で横になることが多くなっていた。
そんな頃、自我省察の時間に、突然放送で、妊婦と不妊者だけ講堂に集まるように指示があった。
わけもわからず集まると、どうやら大母様が来られて御言葉を語ってくださるらしかった。
私はなぜか導かれるように最前列に座ってしまった。
噂では、115期の40修の妊婦で、2期連続で参加することを希望する人がほとんどいなかったことを憂い、チェ局長が大母様にそのことを報告されたそうである。
少しすると、大母様が来られた。
大母様はいろいろと耳痛い御言葉を語られた。
「残念なことは、適当に生活をしている中で、子供ができてしまったという人が多いことである。よい2世を生むために、精誠を尽くす生活が必要。」
と語られた。
「ここに集まっている妊婦さんたちを見ると、まだ霊の多い人ばかりである。中には、40日参加する前とほとんど変わっていない人もいる。」とのことだった。
そして、具体的に霊的に目についた姉妹を指して、アドバイスされた。
「そこの前に座っているあなた。あなたもまだ霊が多いですね。もう一期残れるんですか?」
1人、2人と直接そのように言われていた。
最前列に座っていた私は、内心祈った。
願わくは私に白羽の矢が立たないように。
1人、もう1人と指さされる中で、私の中で、諦めに近い思いが生じてきた。
「私にとって本当に必要ならその内容を与えてください。」
すると、その直後、大母様の視線は私に注がれた。
「あなたはもちろんもう1期残るんでしょうね。あなたもまだ霊が多いです。」
私はわが耳を疑った。4年前と全く同じパターンではないか。
そして、大母様は続けて、清心病院で産むと、本当に一番良い名前を付けてくださるということを語られた。
大母様は私が祈願書に書いた内容を踏まえて語られたのだろうか?
それから少しして、御言葉を語り終えられ、大母様は講堂を後にされた。
そのあと、その場に残された妊婦メンバーは騒然とした。
直接「もう1期残りなさい」と言われたのは5,6人だったが、「みんなまだ霊が多い人がほとんど」と言われていた。
ある姉妹は、「大母様は、事情圏が大変でなく、がんばればもう1期出られる人にだけ直接言われたのでは」と言っていたが、なるほどと納得させられた。
私は、どうしてももう1期残る決意はできなかった。
115期の40修が終わると、もう臨月に入ってしまうので、清心病院で産むしかなくなってしまう。
長男が帝王切開だったので、今回は自然分娩したいと思い、日本にいるときに自然分娩できる病院をわざわざ探したのだった。
それなのに、清心病院では、また帝王切開になってしまう。
大母様が私に直接残るように言われた時、口調としては、「できるのだったら残った方がいいですよ」というような感じだった。
そのため、私としては、「では、申し訳ありませんが、帰らせていただきます。」という意識でいた。
大母様から御言葉をもらったその日に、日本にいる主体者に電話し、大母様から残るように言われたことを報告した。
主体者は絶句した。
「でも、大母様は「できるのだったら…」というような感じでいわれていたことだし、予定通り帰ろうと思うけど」と私が言うと、主体者は少しほっとした感じだった。
しかし、時間が経つにつれて「本当にそれでよいのか」という思いが常に付きまとうようになった。
大母様が言われることに意味のないことがあるわけはない。
大母様は100年先を見通すことができても、自分には明日のことさえ分からないのである。
これから起こることに対してすべて自分で責任を負えるのかと考えると苦悶するのだった。
「あのとき清平に残っていれば…」という事態が起きてしまってからでは遅いのである。
私はせめてもの精誠として、40修終了後、その次の2日修まで延泊しようかと思い始めた。
大母様から直接残るように言われた妊婦たちは、みな同様に悩んでいた。
その中の一人のお姉さんは、いつも就寝時に隣に寝袋を敷いていたので、よく一緒に話をした。
そのお姉さんは、既に、もう一期参加することを決意していた。
そして、私に対して次のように語った。
「結局どうすることにしたの?やっぱり大母様が言われるからには何かあるんだよ。日本に帰って自然分娩するにしても、本当にどうなるかはわからないじゃない。」
確かに、帝王切開後に自然分娩する場合、リスクがないわけではない。
聞くところによると、100人に1人くらい子宮破裂することがあるらしい。
自分はそうはならないだろうと思ってはいても、未来がどうなるかは神と霊界にしかわからないだろう。
私は情心苑でボソボソと祈りながら清心病院で産む決意を固めていった。
私が決意をすることができても、問題は主体者である。
信仰のある人だが、4年前にも苦労の末、清心病院で産むことになったいきさつもあり、受け止められなさそうだった。
あと私が数日で帰ってくるものと思い、待っているところに、私の決意が爆弾のように襲いかかるのだった。
かわいそうだけれど仕方がない。
情心苑でよくよく祈祷してから電話してみた。
「あのね、重大な話があるんだけど…やっぱり清心病院で産もうかと思うけどどう思う?」
沈黙がしばらく続いた。
「やっぱり大母様が残りなさいというのには、意味があると思うんだよね。」
それでも沈黙だった。
本当に受け止められないといった感触だった。
その後何を言ったか覚えていないが、このままでは家庭崩壊を予感した私は、急いで日本にいるアベルに電話した。
そして、清平で起きたことを説明し、主体者を精神的にフォローし、説得してもらえるようにお願いした。
その後、私は主体者にFAXを送ることにした。
主体者は内的にも外的にも整理がつかなくて混沌としているので、文字にして現状を明確にすることが必要だった。
まず、今回の決意が私の勝手な個人的な願望や気まぐれではなく、理想家庭を築くためであることを明記した。
事実、私は日本に帰って出産前の期間を静かに過ごしたかったのである。
それを、主体者が私の気まぐれで振り回されていると勘違いしていたら、根本的に理解し合えないと思ったからである。
それから、清心病院で産むために考慮しなければならない問題と解決方法を整理した。
今回も、必ず日本に帰るつもりでいたため、出産準備を何もしていなかった。
そのため、買い物リストまで作成した。
翌日、主体者に電話したときは、アベルの説得とFAXの甲斐があってか、だいぶ落ち着いたようだった。
主体者は、自分の思いを話してくれるようになった。
4年前の出産のときに、氏族圏にもまれ、時間も知識もない中で出産準備を1人でし、本当に苦労した主体者であった。
それでも最終的には、出産後、氏族圏もうまくまとまったこともあり、清平で産んだことを感謝していたつもりだったようだ。
しかし、また同じ境遇に置かれた時に、その過去の傷口がザクッと開いてしまい、感謝の背後の恨が噴き出してきたとのことだった。
私は、主体者のその思いを受け止めてあげた。
また、主体者は長男を産む前から、出産に立ち会いたい願望があったが、結局、長男のときは立ち会えなかった。
今回も帝王切開なので手術室まで入れないが、せめて生まれたばかりの赤ちゃんを見せてあげたかった。
そのため、出産の前後に清平に来たらとお願いしたが、主体者は「会社を休めない」との一点張りだった。
以前、家庭出発当初、新婚旅行で主体者に1週間会社を休んでもらったことがあった。
そのとき上司の許可を得たにもかかわらず、休暇後、社長に直接こっぴどく怒られたことがあったようで、それが主体者の心に尾を引いているとのことだった。
そのあと、情心苑で祈っていると、2つのことが啓示として与えられた。
一つは、夫八日修のこと。
うすうす7月末から8月にかけて行われるということを聞いたことがあったが、それに主体者を参加させたらよいと気がつかされた。
前々から主体者には夫八日修に参加するよう説得していたが、いつも「仕事が休めない」と言い続けていた。
そこで、もうひとつ気がつかされたのは、115期の40修には、主体者の会社のO社長が参加しているということだった。
40修の期間、顔を合わせれば挨拶していたが、試しに直談判してみようと思わされた。
その後、情心苑を出ると、本当に導かれてO社長にばったりと出会ったのだった。
私は、挨拶した後、おもむろに話を切り出した。
「あの〜相談があるんですけど…」
ちょうど朝の聖地祈祷の時間帯だったので、一緒に聖地への坂道を登りながら話ができた。
O社長が今の会社に対してどう思っているかなど、貴重な意見を聞くことができた。
そして、主体者が夫八日修に参加するのは賛成だと言ってくれた。
さらに私は、出産して帰国するまでの期間、主体者を休ませてもらってよいか聞いてみた。
少し難しそうな顔をしたものの、「いいでしょう。」と許可してくれた。
次に電話したときには、更なるアベルの協助もあってか、主体者も前向きになってくれていた。
清心病院で産むことに関してようやく納得してくれて、現実的に抑えるべき問題について話し始めた。
まず、私の実家の両親の問題。
これは、私から電話することになった。
出産準備は、また主体者が頑張ってくれることになった。
私の航空チケットは、とりあえず帰国日を8月半ばに変更しておくことにした。
長男は、115期の終了後、幼稚園に迎えに行き、それ以降は一緒に修練会に参加することにした。
夫八日修に関しては、まだ決意ができないとのことで、主体者の決意待ちとなった。
ようやく主体者との間がまとまったため、次は実家の両親への連絡だった。
清平へ来る前に、「今度は必ず帰ってきて産むから」と言ってきた手前、なんと言おうか悩ましかった。
電話の向こうの母に、「実は、結局また韓国で産むことになったんだけど…」と伝えると、怒った声でいろいろ愚痴を言われたが、私がまた韓国で出産することは想定範囲内ではあったようだ。
とりあえず、「勝手にしなさい」ということで収まった。
もちろんアフターケアは必要であるが…
また、その後日譚として、実家の父が庭木の剪定中に梯子から落ちて、左手首を複雑に捻挫してしまうことがあった。
長男の出産時には脳梗塞になり、そして今回は捻挫。
私はなんと忌まわしい娘なのだろうか?
主体者の説得に時間がかかったため、飛行機のチケットの変更が出発前日になってしまった。
昼食を食べに行く前に、ノースウェストの日本のサービスセンターに電話したが、なかなか電話がつながらない。
ようやくコール音になったので、ずっと受話器をもって待っていたが、とにかく長い。
掛け直そうかとも思ったが、明日の飛行機チケットの変更である。
もし今日中につながらなければ、変更できなくなってしまう。
30分か40分ぐらいして、ようやく女性の声がした。
明日の帰国便をキャンセルし、8月半ばに変更できるか聞いてみたところ、OKだった。
ホッとした。
ただ、8月半ばはお盆なので、キャンセル待ちだとのことだった。
私はとりあえずキャンセル待ちで申し込んでおいた。
電話を切った時には、もう昼食の時間が終わっていた。
ダメもとで食堂に行き、厨房をのぞいてみると、残り物があったので、なんとか食事にありつくことはできた。
待ちに待った閉講式の時を迎えた。
このままもし明日帰国できるのだったら、どれだけこのときがうれしかったであろうか。
きっと解放感から両手をあげて喜んでいたに違いなかった。
しかし、私は、まだ帰れなかった。
おなかの中の子の顔を見るまでは帰れない…。
きっとこうして期間を延長することで分立される霊はいるはずである。
私は、とにかく40日で帰ろうという意識が強かったが、その背後にも悪霊の影があったのかもしれない。
40日間必死になって分立されないようしがみついていた悪霊たちも、「やっと霊分立の役事から解放される」と思っていたに違いない。
しかし、彼らは役事から解放されなかった。そこであきらめて分立されてくれれば幸いである。
閉講式後に帰国できないということはあるけれども、ようやく長男を幼稚園に迎えに行けることで胸を躍らせた。
清心幼稚園に子供を預けていた人の話を聞くと、子供がすねて口をきいてくれないとか、子供に顔を忘れられてしまったとかあるそうだが、うちの子はどうだろうか?
閉講式後、昼食を取り、その後シャトルバスで正門前の清心橋まで乗せて行ってもらった。
そこから幼稚園までは歩いて5分もかからなかった。
幼稚園に着くと、日本人の先生が出迎えてくれた。
「K君のお母さんですね。K君待ってますよ。」
先生は長男を呼んできてくれた。
「お母さ〜ん!」
長男はすねることなく、素直に明るい表情で走り寄ってきた。
私は彼を抱きしめた。
「K、元気だった?」
工事中
工事中
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