Oさんの体験記(2003年10月)






清心病院での出産願望

 ちょうど2003年3月、清心病院OPENに先立ち、医療天使の役事の恩恵のある修練会が行われた。
 その情報を清平のホームページで見ながら、ちょうどその頃妊娠3ヶ月で産院を探していた私はこう思った。
「清心病院がもうOPENするのか。出産前には清平40修に1度参加したいが、ついでに清心病院で出産できたらどれほど恵みかな。」と。
 そのことを一度、友達と主体者に軽く話をしてみた。
 すると、友達からは「海外で産むのは大変よ。赤ちゃんのパスポートも取らないといけないし、産後しばらくは日本に帰ってこれなくなっちゃうわよ。」 というアドバイスをいただき、主体者からは「清心病院だったらまず出産立ち会えないね。」とボソッと言われた。
 特にうちの主体者は出産時の立会いを楽しみにしていたのである。
 わたしは、それらの意見を踏まえ、「そこまでして清心病院で産むのも大変だ。一心病院にしておこう。」と断念したのだった。
 それが結局、あれよあれよと不思議な導きにより、清心病院で出産することになったのだった。
 さすがに今は無蕩減時代だからなのか、一度あきらめてしまった願望までも神様はかなえて下さったのである。



清心病院で出産するようになったいきさつ

 なぜ結局清心病院で出産することになったのか?
それは、『なりゆき』である。
わたしは7月後半から74期の40修に参加した。開講から2週間遅れの参加であった。ちょうど参加した3日目に清心病院の開院式典があり、今思えばそこに参席できたのは意味深いことであった。
 当初、40修は1期のみ参加して8月末には帰国し、出産準備をする予定だった。
 しかし、参加受付時より、日本事務局の文部長より「妊婦は基本的に2期出ないとだめですよ。」と言われた。妊婦は霊が出にくいからである。また、修練会を通していろいろと御言葉を聞く中で、自ら2期目の参加を決意したのだった。2期目に参加すると、終了するときには10月になり臨月に入るため、そのことに対する決意も必要だった。
 40修に参加すると妊婦は、大母様の按手を受けられる。そのとき大母様はひとりひとりお腹の中の子供を見てくださり、異常があればご指摘してくださるのである。
 わたしは1期目のときは参加から約10日後の7月末に、2期目では9月後半に按手を受けることができた。1期目で按手を受けたときは、大母様から特に子供のことでは何も指摘されなかった。そのため安心して2期目の按手に臨んだ。2期目は大母様がアメリカに行かれる前だとのことで、忙しい中按手をされていた。私が按手の順番を祈祷室の前で待っていると、大母様が用事で席をはずされるため、祈祷室から出てこられた。そのとき大母様は通りすがりにこう言われた。「あなたはまだ霊が多いからもう1期参加しなさい。」と。私は突然のことで頭が真っ白になってしまったが、「はい、わかりました。」と答えた。ちょうどそのころ、個人の祈祷課題として絶対愛・絶対信仰・絶対服従のことを祈っていたので、そのように答えることにためらいはなかった。
 とはいえ、そのころちょうど教会に対して反対黙認状態である主体者と自分の親に、手紙で清平にいることを報告し、爆発状態にあったのだった。主体者も40日で私が帰ってくるものと思いきや、しぶしぶ2期目の参加を許してくれている状態で、しかも親からの圧力にさらされる中で、私がもう1期参加することを受け入れられるのかというのがあった。何より、もう1期参加するということは、時期的に清心病院で出産することを意味するのである。日本で何の出産準備もしてこなかったため、その全てを主体者に任せることになることをも意味する。私はそれらの事情圏のことを情心苑で祈っていると、ふと頭にある映像が浮かんだ。ラグビーの試合でボールを抱えて走り、相手のゴールにタッチダウンするシーンである。何人もの大柄な敵が、ボールを抱えて走る私に向かってタックルしてくる。私はそれを右に左に交わしながら突き進み、見事ゴールを決めるのである。
 わたしは、「そうか」と思った。本当大母様に直接言われてしまったからには、たとえ日本に帰れなくなってしまったとしても突っ走るしかないんだなと。
 以上のいきさつで、私は清心病院での出産を決意したのだった。



胎児の異常

 しかし、40修にもう1期参加するからといって必ずしも清心病院で産むことができるとは限らない場合もある。私もその危険性を清心病院の医師から言われていた。
 どういうことかというと、清心病院ではまだ小児科がないため、未熟児を診ることができないのである。私の場合、妊娠9ヶ月後半になって、胎児が小さく、成長が1ヶ月くらい遅れていると診断された。それで、もし出産までに最低2200gに満たなければ、ここの病院では産めないので、もっと大きい病院へ行かなければいけないと言われたのだった。
 そうなると、何の因縁もなく言葉もわかる人のいない一般の韓国の病院で、身内にお見舞いにきてもらうこともなく寂しい入院生活を送ることになるのだ。
 それを考えると40修にもう1期参加することは恐ろしかったが、それでも、必ず胎児は大きくなると信じていた。
 実際、臨月に入って胎児は急激な成長を遂げ、10月半ばには2200グラムを超えてホッとさせられた。
 また、私の場合、胎児のことでもう一つの問題があった。逆子だったのである。
 40修では妊婦は1度だけ無料で妊婦検診を清心病院で受診できる(修練費から出る)。ただし、それ以降検診を受ける場合はもちろん自費である。最初、1期目の健診を7月に受診したときから、胎児が頭を上にしていたが、まだこのときは妊娠7ヶ月だったため、特に医師に指摘されることはなかった。ただ、来月また来てくださいと言われたが、あまり経済的に余裕がなかったため、8月の健診は受けなかった。9月に入り、2期目の健診を受けたときに、初めて医師に逆子を指摘された。もう妊娠9ヶ月に入っていたからである。そして、「なぜ先月来なかったんですか?大事な時期なのに。先月来ていたら簡単に逆子が直っていたかもしれない。」と言われてしまった。やはり医師の言葉はちゃんと守ったほうが良かったようだ。その後、寝るときに横を向いて寝たり、逆子体操をしたり、胎児に頭を下にするように語りかけたりしたが、どれも効をなさなかった。
 清心病院の産科の先生はあまりリスクのある処置をされないため、逆子は帝王切開しか道がなかった。
 お父様のみ言葉では、やはり自然分娩で出産した子供のほうがよいとのことだし、自分自身産後帰国してからのことを考えると、回復に時間のかかる帝王切開は避けたかった。
 ただ、帝王切開の場合、手術日が事前に分かるため、主体者の渡韓計画が立てやすく、また、出産時の祈祷をお願いしやすいというメリットはあった.



いざ清心病院に入院

 10月19日の夜、全ての荷物をまとめ、20日朝、40修の男性2人に荷物を託した。
 ちょうどその日は一般修練生の健康診断の日だったので、荷物運びをお願いできたのだった。修練所から病院へ向かうあの急な坂道を、妊婦が重たい荷物を背負って行くことは大変困難だった。それを男性が気軽に引き受けてくれて本当に感謝だった。
 一応、昼の役事後に修練所から病院へ行くバスがあるが、入院は午前からのため、そのバスを利用するには入院前日に荷物を運ぶ必要がある。
 7月に来てから3ヶ月間お世話になった修練所を去る前に、情心苑で長く祈祷し、さらに、手術後はなかなか出歩けなくなると思い、生命水・忠誠の木・万物の木・心情の木をめぐり、祈祷をささげてから病院の受付へ行った。そのため、時間はもうAM11:00になっていた。
 まず、地下1階の売店で、入院時に必要なもので足りない物品を買い揃えた。店番のお姉ちゃんは韓国人で片言の日本語は話せたが、ちょっと込み入った話しになると理解できない。乳児用の粉ミルクを探すのに、電話での通訳を要した。
 次にロビーのインフォメーションへ行き、男性に運んでもらった荷物を預かってもらっていたのを受け取った。それから受付で診察券を提示し、診察料8200ウォンを支払い、2階の産婦人科外来へ。
 入院前にまず診察だった。これがラストチャンス。もしここで逆子が直っていたら帝王切開は中止だった。しかし超音波のエコーの結果はクロ。やはり胎児の頭は私のへその横あたりにあった。これで入院は確定した。再び1階の受付へ向かい、入院手続きを行った。
 手続きを終えて産婦人科外来に戻ってくると、これから2週間過ごすことになる病室に案内された。大部屋の一番入り口に近いベッドだった。大部屋には対角のベッドに1人、韓国人の姉妹がいるだけだった。
 この日はあと、剃毛と皮内テスト・ノンストレステストがあるだけだった。そのため、忙しい40修のスケジュールから解放されたこともあり、とても退屈だった。ただ、手術後、帰国までの諸手続きのことで心配なことが多かったため、顧客相談室に行っていろいろ確認を行った。出産証明書を日本へ送付してもらう日にちと送付物の確認、パスポート取得にかかる費用と日数の確認などである。また、大母様に名前を早急に選んでもらえるように赤ちゃんの名前の候補を託した。
 夕方頃、部屋に看護婦さんが2人来られて、剃毛と皮内テスト・ノンストレステストをしてくれた。
 また、看護婦さんが言うには、「あなたの手術のために日本人スタッフを増やしたから大丈夫よ。」とのことだった。
 この日の夜9時から絶食だった。はじめは、水なら翌朝までよいとのことだったが、何度か指示が一転して、最終的には全てだめになった。いずれにせよ、その日の夕食が”最後の晩餐”だった。昼間に、同室の韓国の姉妹のところへお見舞いに来た韓国40修の韓日のお姉さんが、私にもケーキを差し入れしてくれたので、最後の晩餐にはデザートまでついて満足だった。
 夜9時を回った。私は電話することにした。主体者と実家へ。主体者はいつも帰りが遅いので、実家から先に電話することにした。決意が必要だった。今回の出産に際して相当かき乱してきたためである。
 電話に出たのは、仲の悪い姉だった。実家に帰ってもまともに口を訊いてくれない人である。実家に電話をして姉が出ると、いつも無言で母に換わってくれるのだが、いつもと様子が違っていた。「今から病院へ行くから、話している時間ないの。」と言われた。私はエッと思った。「病院ってどういうこと?」「お父さんが入院するの。じゃあ時間ないから切るね。」姉はそういうと電話を切ってしまった。
 脳裏に暗雲が立ち込めた。一体父に何が起こったのだろう?よりによって私が入院した日に入院だなんて・・・命に別状はないのだろうか?お腹の子が生まれるための氏族的蕩減条件を背負ってくれているのかもしれないと考えた。
 それから少しして、主体者に電話をした。主体者にお産の祈祷の最終確認を行い、産後の連絡先(病室の電話番号)を知らせた。そして、私の父が入院することを知らせ、どういうことになっているのか聞いておいてほしいとお願いした。



ついに手術台へ

 手術当日の朝、私はまだ手術をするという実感が湧かなかった。いつもと同じように一日が過ぎていくように思われた。確かに絶食のため、お腹はすいたし、診察や諸検査でバタバタしていた。手術前の浣腸を行い、主体者にも手術前最後の電話をした。手術直後は体が大変で、とても電話できないだろうということを伝えた。それでもまだ実感が湧かない。
 午後、1時前から陣痛室に移り、手術着に着替えて点滴を行った。
 そして、午後1時半。ついに手術室へ。看護婦さんたちは私の寝ているベッドを押して部屋を出た。手術室は陣痛室のすぐ隣なのだが、入口と出口が別になっているようで、病棟の廊下を大回りして手術室に向かった。さすがにこのときになって初めて恐怖を覚えた。
 確か私の祖母は、全身麻酔での手術中に、たんをのどに詰まらせて亡くなったと聞いたことがある。ちょうど私も40修の終わりがけに清平風邪を少しもらってしまい、咳とたんが続いていた。大丈夫だろうか・・・と急に不安になってきた。
 看護婦さんに聞こうと思ったが、慌しい雰囲気でそれどころではなさそうだった。
 手術室の区画に入ると、肌寒く、冷っとした。ますます不安感が募る。
 手術室には手術着を着たドクターと看護士さんたちが待ち構えていた。なんだかすごく緊迫した雰囲気だった。手術台に乗せられ、素っ裸にさせられ、尿管やら何やら取り付けられて痛いの何の・・・もう、まな板の上の鯉だった。
 もう生きて帰れないかもしれない・・・と思った。そのとき、酸素マスクのようなものを口にあてるように、日本語を話せる男の先生に言われた。それがチャンスと思い、手術中にたんが詰まったらどうするのか聞いてみた。「心拍数をちゃんと見ているよ。ちゃんとたんを吸い取る器械があるから大丈夫。」と言われて少しホッとした。
 あと、またその先生に意外なことを聞かれた。「何かスポーツやっていたの?スポーツマン心臓だね。」その後、私の意識はなくなった。



手術後、大母様来る

 うろ覚えであるが、目を覚ましたのは手術室だった。男の先生の声で起こされた気がする。その声に答えようとしたが、声が出なかった。腹部の痛みで身動きが取れなかった。その後、ベッドに乗せられて個室へと運ばれた。
 生まれてはじめて手術を体験したが、手術後がこんなに大変になるとは考えもしていなかった。少なくとも妊婦とはいえ手術室に入る前までは自由に歩き回ることができ、自由に食べることもできた。それなのに、手術室に入ってほんの数時間でそれらの自由が一切奪われてしまったのだった。そのときは、再び痛みから解放され自由になる日がもう来ないかのように感じられた。とにかく微動だにできなかった。
 お腹の傷口の上には錘が載せられていた。これがさらに痛みを増幅させていた。この錘は、子宮の収縮をよくするためだそうだ。
 まだ麻酔から完全に覚めていなかったので何時間か朦朧としていたが、そんなときにバタバタと先生を先頭に2,3人が病室に入ってきた。朦朧とした意識の中で薄目を明け、そこにいたのは大母様だった。
 大母様は韓国語しか話されないので、大母様の語られる韓国語を理解できないことが本当悲しく感じられた。ただ、部分部分は先生が通訳してくださった。
 大母様は「まだ麻酔が完全に醒めきってないのね。」とおっしゃり、錘の乗ったお腹をなでて按手してくださった。
 その後,「帝王切開でも、ここ(清心病院)だと痛みも少ないでしょう。」と言われた。
 そして、部屋を出て行かれた。廊下で大母様と先生が話されている声を聞いた気がする。「この人は日日で誰も家族が来られないんだ」と言うようなことを先生が大母様に言われていたように思う。



赤ちゃんとの対面

 私は手術直後に意識を回復したとき、まず看護婦さんに「赤ちゃんは?」と質問した。看護婦さんは、「赤ちゃんは大丈夫。いま新生児室にいるよ。」と答えた。なんだか不思議な気分である。今現在激痛の只中にあるおなかが、本当に小さくなったのか自分では確認できなかった。眠りに着く前は存在しなかった存在が、目を覚ました今はいるのである。すぐに見てみたいと思ったが、激痛に耐えかねてやはりそれどころではなかった。
 手術後5〜6時間経過した頃だっただろうか?もう夜だったが、看護婦さんが病室に赤ちゃんを連れてきてくれた。まだ痛くてぐったりしていたが、手術直後から比べると着実に回復してきていた。とても自分で上体を起こすことはできなかったが、看護婦さんがベッドのリクライニングを起こしてくれた。赤ちゃんの顔をまじまじと見つめた。「これが私の赤ちゃん?」なんだか驚きと感動を覚えた。「この子がずっとお腹の中に入っていたんだ。どうやって入っていたのかな?」
 「じゃあ、一度おっぱい吸わせてみようか。」と看護婦さんは言った。看護婦さんが私の乳首を軽く揉むと、黄色い液体がにじみ出てきた。「すごい。もうちゃんとでるねぇ。」看護婦さんは驚いていた。自分でも驚いた。帝王切開だとすぐには母乳が出てこないことが多いということを聞いていたからだ。早速看護婦さんは、わたしの左脇に赤ちゃんを寝かせてくれて、おっぱいをあげる姿勢を指示してくれた。乳首を赤ちゃんにすわせると、チュッチュと吸い始めた。なんだか不思議さと感動のあらしだった。
 その後、看護婦さんはデジタルカメラで記念撮影をしてくれた。「ご主人のメールアドレスを教えてくれたら送りますよ。」とのことだった。



やっと立てるようになった

 手術翌日、前の日と比べるとだいぶ痛みも引いた。手術直後には、この痛みが永遠に続くかのように思われたので、感謝だった。
 昼頃には看護婦さんが来て、お腹の上の錘をはずし、尿管もはずしてくれた。
 このことで痛みと器具の違和感はなくなったが、ひとつ、大きな問題があった。トイレに自分で起きて行かなければならなくなったのだ。まだまだ痛くて上体を起こすのもままならないのにどうやってベッドから立って歩くことができるだろうか?
 看護婦さんが、「起き上がる練習をしようか?」というので、ベッドのリクライニングを起こしてベッドの手すりにつかまり、痛みに顔をゆがめながら上体を起こした。そして腰をずらしながら足を引き寄せ、やっとの思いで床に足を着けることができた。
 しかしさすがにそこから立ち上がることができるように思えなかった。
 看護婦さんも、「ちゃんと起き上がれたね。やっぱり若いから回復が早いね。手術の翌日だとまだ起き上がれない人もいるからね。とりあえず今はここまでにしておこうか。」と言ってくれたのでホッとした。
 しかし、尿意が感じられたら最後、いやでも立ち上がらなければならないのである。
 それから、その大きな不安を抱えながらベッドでうつらうつらとしていたが、2、3時間経ってからだろうか。急を要する尿意をもようしてきた。点滴を行っているため、特に尿が早くたまりやすいらしい。
 「どうしよー」と思ったが、とにかく先ほどと同じように起き上がり、ベッドの端に腰掛けた。
 さて、どうやって立ち上がろうかと思ったが、躊躇している予断はなかった。
 「漏れるーっ!」という一念のもと、点滴棒の取っ手にしがみつき、立ち上がった。思ったほど痛みを感じなかった。
 とにかく差し迫る思いで点滴棒を杖代わりに歩き、トイレに転がり込んだ。
 何とか間に合った。ふぅっとため息を漏らした。
 一人で立ち上がり、歩けるようになったことがうれしかった。やはり人は差し迫る状況に置かれないと、壁を越えられないのかもしれない。



大母様再来

 手術の翌日の午後、大母様はまた病室に来られた。大母様は先生と何かを話されたが、やはり韓国語なのでよくわからなかった。
 大母様はまた按手してくださった。「子宮の収縮がいい。」とおっしゃられた。
 そのあと、なんと予想もしないことに、プレゼントを下さった。ロッテデパートの包装紙でポロシャツの形にきれいにラッピングされていた。
 本当感激きわまりなかった。「大母様、カムサハムニダ。」としか言えなかった。本当韓国語が話せないと何と惨めなのだろうか。
 大母様が部屋を出て行かれてからもずっと感動の余韻に浸っていた。
 そして、しばらくしてから恐る恐る大母様からいただいたプレゼントの包装をあけてみた。
 中には赤ちゃんのかわいい水色の下着が入っていた。
 大母様はどのようにこれを選ばれたのかなとふと考えた。あのお忙しい大母様がわざわざご自分でロッテデパートまで行かれたのだろうか?それとも誰かに頼んで買ってきていただいたのだろうか?
 そのときは、プレゼントが赤ちゃんの下着だということに対して、特になんとも思わなかったが、後で本当にそのことに感謝することとなった。

 また、清心病院で出産したら大母様はみんなにプレゼントをくださるのかと思いきや、そうでもなかったことが後で分かった。
 大部屋に移った後でいろいろな人と話しをしたが、そういった話しは一度も聞かなかった。
 病院で大母様に一度も会うことができなかった姉妹もいた。
 わたしも私だけが恵みを受けたということを話していいものかも分からなかったのであまり話さなかった。

 なぜこんなに恵みを受けたのかなぁと考えると、やはり大母様に言われて40修に3期のこり、自分の意志とは関係なく天に委ねて清心病院で産むことになったからだろうか。
 それともお見舞いの家族が誰も来ない私を哀れんでくださったのだろうか。
 その日の夜、顧客相談室の方が部屋に来られた。「大母様が赤ちゃんの名前を決めてくださいました。」



大部屋へ

 手術翌日の夜、点滴の針が外された。しかし、まだ歩くのが大変なため、杖代わりに点滴棒を置いておいてもらった。
 その翌日の朝、看護婦さんが問診にきた。帝王切開パッケージでは、手術から2日間は個室があてがわれるが、それ以降は大部屋に移されることになっていた。そのため、問診は大部屋に移ることが可能であるかどうかの調査も兼ねていた。
 前日と比べたらだいぶ歩くのが楽になってきていた。だが、やはりベッドから立ち上がるのが大変で、リクライニングを起こしてからでないと難しかった。
 大部屋のベッドは手元でリクライニングを調節できない。
 そのような旨を看護婦さんに伝えると、「じゃあもう少し様子を見てみようか。」ということになった。
 その日の午後、先生が部屋に来られたときに、「あれっ、午後から大部屋に移るんじゃなかったでしたっけ?」と聞かれた。事情を伝えると、「今日の夜までに大部屋に移らないと追加料金払うことになるけどどうするの?個室は一日一万円かかるよ。」とのことだった。
 それも痛いなぁと思った私は、午後から大部屋の環境を調査と、リクライニングを使わないでベッドから起き上がる練習を行った。
 夕方頃、大部屋に移っても生活できるめどが立った。
 そこで、ナースステーションの看護婦さんに「これから大部屋に移ります。」と伝えた。
 すると、ちょうど誰か新しい患者さんの分娩前でバタバタしていたためか、「今からだと大変だから明日移りましょう。」と返事された。
 追加料金のことをたずねると、「大丈夫よ。」とのことだった。さすが清心病院は融通が利く。
 結局、大部屋に移ったのは翌日の昼過ぎだった。



ピンチ!書類手続きの不備

 とにかく日本で出生届から戸籍謄本取得まで時間がかかるため、1日でも早く出生証明書を発行してもらい、送付する必要があった。
 しかし、手術の前日に、顧客相談室の人と書類送付のことを打ち合わせていたにもかかわらず、なぜか思惑が外れてしまった。
 手術当日に出生証明書を発行してもらい、日本に送付してほしいとお願いしていたが、発行されたのは手術翌日だった。
 最も速い郵送手段であるEMSでも日本まで2〜4日かかる。特に休日を間にはさむと時間がかかるのだ。
 手術日は火曜日だったため、もしその日のうちに郵送してもらえれば確実に土曜日までには日本にいる主体者の手元に届くはずだった。
 だが、発送が水曜日の午後になってしまったため、週末までに日本に届くかどうか微妙になってしまった。
 主体者は会社で働いているため、自由に動けるわけではない。
 彼は翌週の月曜日に午前年休を取って、出生届をしに役所へ行く予定だった。
 それまでに書類は間に合うだろうか?
 私はどうにもなすすべがないので、祈祷条件を立てて祈るしかなかった。
 土曜日になっても配達されないと言う連絡を主体者から受けたときはハラハラしたが、幸い、その翌日の日曜日に無事配達されてホッと胸をなでおろした。
 しかし、月曜日には更なる試練に襲われることとなった。
 月曜の午前中、主体者から電話がかかってきた。出生届が終わった報告かと思いきや、そうではなく、彼の声はすごく落ち込んでいた。
 「送ってもらった書類が足りないんだけど。」「エッ?!」私は愕然とした。確かに送付物を確認して送ってもらったはずなのに・・・。
 「何が足りないの?」「出生証明書で韓国語で書かれた原本が要るみたいなんだけど。役所で、それがないと受理できないって言われた。とりあえず今、本当に受理してもらえないのか調べてもらっているんだけど。とにかく大至急送ってもらって。」
 そんな原本のことなんて聞いていない。一度顧客相談室の人に聞いてみることにした。
 顧客相談室の人に状況を説明すると、やはりびっくりしたよううだった。
 「そうなんですか?本当申し訳ありません。でも以前ここで出産された日日の方のときは韓国語の原本がなくても大丈夫だったんですけどねぇ。役所によって違うんですかねぇ。とりあえず原本を発行してもらって、今日の午後には郵送できるようにします。」
 その日に送ってもらっても、日本に着くのは週の後半になってしまう。主体者はその翌週の月曜日から木曜日まで会社に休みをもらって韓国に来てくれることになっていた。それまでに戸籍謄本は間に合うのだろうか?
 主体者の話しでは、彼が出生届を出したのが区役所の出張所であるため、そこで受理されて1日、次に区役所に送られて受理されるのに1日、そこからさらにその書類が本籍地の市役所に郵送されるのに1〜2日、戸籍謄本を本籍地で発行してもらうのに1日、そして最後、その戸籍謄本が自宅に郵送されるまでに1〜2日かかるのである。ただでさえ1週間まるまるかかってしまうのだ。なんだかもう絶望的である。
 私はやはりどうにもなすすべがないので、祈祷条件を立てて祈るしかなかった。御意ならば必ず成ると信じるしかなかった。
 その翌日、主体者から電話があった。なんと、出生届が受理されたとのことだった。
 役所の人の調査で、過去に出生証明書原本がなくても受理した前例があったとのことがわかり、今回の受理にいたったのだった。
 本当神に感謝した。これで少し希望が見えてきた。
 出生届が受理された3日後、出生届の書類が無事、本籍地の市役所に到着した。
 主体者は何度もその市役所に電話をしてそのことを確認し、その当日中に大至急赤ちゃんの名前の入った戸籍謄本を速達で送ってもらえるようにお願いしたのだった。
 その甲斐あって、日曜日には戸籍謄本は主体者の元に届いた。
 こうして緊迫の1週間が導かれて終わり、ただ感謝だった。



奉献式

 主体者は奉献式には来られないので、一人で行うことになった。
 前日にナースステーションで「伝統」のコピーを貸してくれたので、「産後、本を読むのはよくない」と言われながらもショボショボする目で文字を追い、準備をすすめた。
 自分の着る式服・・・持ってきていなかったが、向かいのベッドのお姉さんから貸してもらえることになっていた。
 赤ちゃんの服・・・入院するずっと前に、病院の売店で買っておいた。やっと着せる機会がきた。
 赤ちゃんの下着・・・できれば新しい下着がよいとのこと。しかし、何も準備をしてきていない。・・・そういえば・・・ここで以前大母様がくださった下着を思い出した。そうだ。大母様はこの日のために下着をくださったに違いない。さすが大母様は本当に必要なものを下さったのだぁとつくづく実感し、さらに感謝を深めることになった。
 奉献式のことに関して、顧客相談室の方がいろいろ世話をしてくださった。「最近大母様が産母教育室に立派な祭壇をそろえてくださいました。あなたがその祭壇ができてから初めて奉献式するんですよ。」とのことだった。本当大母様が意識してくださり、愛してくださっているのだなぁと思った。



赤ちゃんが熱を出した!

 奉献式の日は、朝早くお風呂に入るなどいつもと異なるリズムであったためか、産母教育室が寒かったためか、午後から赤ちゃんの様子が少しおかしかった。
 口から唾液の泡をいっぱい吹き出していた。
 おっぱいは普通に飲んでいたのでそのときはあまり気にしなかったが、看護婦さんが体温を測ったときに38度を越える熱を出していた。
 私は気が気でなかった。あんなに元気な赤ちゃんだったのに、いったい急にどうしたのだろう?産後すぐは母乳による免疫があるために、あまり風邪ひかないと聞いているのに・・・。
 清心病院には、まだ小児科がない。明日もこの熱が続くようであれば、もっと大きな病院で検査してもらうことになると言われた。
 とりあえず夕方頃、外科の先生が小児科も診られるとのことで、新生児室まで来てくださった。
 外科の先生は、人のよさそうな韓国人食口で、日本語も話すことができた。
 「原因はよくわからないけれど、お母さんがよく祈りが重要ですよ。よく祈ってあげてくださいね。」と言われた。
 翌朝も熱は下がらず、ますます私は深刻になった。
 看護婦さんに許可をもらい、産後初めて病院を出て生命水まで登り、3本の木の前で切実に祈りをささげた。初冬の風が冷たく頬をさする。
 病院から生命水までそんなに距離も傾斜もないが、腹部の傷は痛んだ。
 午後、祈祷の効果があったのか、赤ちゃんの熱が下がったようで、看護婦さんが新生児室から大部屋に連れてきてくれた。私は胸をなでおろし、神様と医療天使に感謝した。
 その後、大部屋にまた外科の先生が来てくださった。
 「赤ちゃんの様子はどうですか?」
 「おかげさまで熱が下がりました。」と私は答えた。
 「本当によかったですね。昨日の夜、私はお母さんよりももっと切実にこの子のために祈祷しました。朝、私がこの子のお腹のマッサージをしたんですよ。以前大母様に按手の仕方を教えてもらったんです。それが効いたんですね。その後、いっぱいうんちしましたよ。」
 先生はそう言うと、笑顔で赤ちゃんのお腹を親指と人差し指で強く揉んだ。
 赤ちゃんは泣き出した。



大母様の夢

 入院中に、大母様の出てこられる夢を3回ぐらい見た。その中で一番印象に残っているのが3回目に見た夢である。
 大母様と直接お話しし、談笑している夢である。
 大母様が「もう一回、2期40修に出てみますか?」とおっしゃられた。
 私は、今回3期出て本当大きな恵みを受けているけれども、そこに至るまでの苦労があったので、「もう懲り懲りですよ。」と答えてしまった。
 何で大母様の前でそんな風に答えたのだろうと思ったが、大母様は微笑んでいてくださった。

 ちなみに、同じ病室の姉妹も大母様の夢を見たといっていた。やはり大母様が祈っていてくださるがゆえなのだろうか?



パスポート写真を撮りにソラクへ

 赤ちゃんの名前の入った戸籍謄本が、なんとか日曜日までに間に合ったので、予定通り月曜日に主体者は韓国に来ることになった。
 韓国では主体者に赤ちゃんのパスポートを申請しに行ってもらうことになっていた。
 パスポート申請には赤ちゃんの写真が必要である。
 病院で撮影してもらえればよいのだが、パスポート写真の規定には細かい条件があるため、プロでないと難しいとのことである。
 そのため、顧客相談室の人に車でソラクの写真館まで連れて行ってもらうことになった。
 「何時に行きましょうか?パスポート写真は目を開いていないといけないから、赤ちゃんが起きているときでないとだめですね。」と顧客相談室の人。
 「じゃあ12時くらいですね。だいたいいつもそのくらいに目を覚ましておっぱい飲むんですよ。」
 「おっぱいを飲んだ後だと寝てしまいますからあまり飲ませないでくださいね。」
 初めての赤ちゃんの外出ということで、周りの人もいろいろ気を使ってくれた。隣のベッドのお姉さんはおくるみを貸してくれた。向かいのベッドのお姉さんはギャザー付の紙おむつをくれた。
 私はほとんど何の出産準備もせずに来たので、本当感謝だった。
 12時過ぎに赤ちゃんは目を覚ました。さて、いよいよ出発・・・と思いきや、予想通り赤ちゃんはお腹がすいて大声で泣き出した。でも、ここで飲ませたら写真を撮るときに寝てしまう。とりあえず赤ちゃんにおくるみを着せた。
 あまりに赤ちゃんが泣くので、看護婦さんと同室のお姉さんたちは、「少しだけ飲ませていったら?」と言って粉ミルクを溶いた哺乳瓶をもってきてくれた。私もその声に押されてしまい「少しぐらいならいいかな。」と飲ませたら、赤ちゃんはグイグイとミルクを飲んで、一気に50cc飲み干してしまった。そしておとなしくなった。私は、ちょっとやばいと思った。
 とりあえずおとなしくなった赤ちゃんを抱えて、顧客相談室の人の車に乗り込んだ。
 赤ちゃんはもう空ろな目をしていた。
 ソラクの町へは車で10分ぐらいだった。清平から出るのは100日ぶりだったので、とても不思議な気分だった。
 車は、ごみごみとした町の通りを走り、写真館の横にある駐車場に停まった。
 写真館は狭くて粗末な建物だったが、デパートと市場以外で初めて入る韓国の商店だったのでワクワクした。
 写真館に入ると、20〜30代くらいの感じのよい兄ちゃんが迎えてくれた。
 顧客相談室の人がその兄ちゃんに韓国語で説明し、パスポート写真を撮ってもらうことになった。
 しかし・・・赤ちゃんはミルクを飲んで車に揺られていい気分になったのか、すっかりお休みモードだった。揺さぶっても足の裏をくすぐってもピクリともしない。
 私たちはカウンターの向かいの粗末なソファーに腰掛け、長期戦に入った。
 しかし、苦労はむなしく、赤ちゃんは親の気持ちも知らずにただ寝るばかりだった。一瞬目を開いてうるさそうな顔をしたときは、「やったっ」と思ったが、次の瞬間には目を閉じてしまうのだった。
 30分が経過した。恐れていた事態になった。
 「あの〜実は〜3時から研修がありまして、私行かなければいけないんですね。もう少しして赤ちゃんが起きなかったら、いったん私病院のほうへ帰ります。研修が終わるのが5時半くらいなのでそれまでに終わったらタクシーで帰ってきていただくことになるのですが・・・よろしいですか?」顧客相談室の人は、本当に申し訳なさそうに言われた。
 片言の韓国語しか話せない私はとても不安だったが、引き止めるわけにはいかなかった。
 それから気まずいときが流れた。
 店の兄ちゃんはカウンターの向こうで作業をしているが、それほど忙しそうでもなかった。
 韓国語で会話さえできればいろいろ話しができるのだろうが、それができなかった。
 たまにドアが開いていろいろなお客さんがやってきた。現像した写真を取りに来たおじさんやおばさん、証明写真を撮りに来た女子高校生、フィルムを買いにきた外国人もいた。
 彼らは私の抱っこしている赤ちゃんを見てはいろいろ話し掛けてくるのだが、言葉がわからないのが本当に情けない。
 かれこれしているうちに3時間経過した。そろそろ赤ちゃんが目を覚ます時間だ。
 赤ちゃんはモゾモゾと動き出したかと思ったら、急に大声で泣き出した。お腹がすいたらしい。
 一応粉ミルクを溶くために、看護婦さんに熱湯の入った哺乳瓶を持たせてもらったが、とっくの昔に冷え切ってしまっていた。
 粗末なお店の中にお湯があるとも思えない。
 母乳をあげるしかなかった。
 お店の撮影スペースの裏手にお店の人の控え室があった。そこを借りるしかない。
 しかし、タイミングが悪い。ちょうどその撮影スペースでお客さんの写真撮影をしているところだった。
 赤ちゃんは大声で泣いていた。
 そのお客さんの撮影が終わった後で、お店の人に片言の韓国語と身振り手振りで訴えた。
 「パン チュセヨ。」
 正しい韓国語かどうかよくわからないが、意味は通じたらしい。
 店の兄ちゃんは控え室のドアを開け、部屋の中を少し片付けて、私を通してくれた。
 私はお礼を言って中に入り、ドアを閉めた。
 部屋には窓がなく、電気はついていたが薄暗かった。モノがごちゃごちゃしていて散らかっていた。
 私は置かれている決してきれいとはいえないベッドに腰掛け、赤ちゃんにおっぱいをあげた。
 赤ちゃんは急に静かになり、一心におっぱいを吸い始めた。
 20分か30分ぐらいして授乳が終わると、店のお客さんがいなくなったのを見計らいドアを開けた。授乳している間にほかのお客さんが来て、撮影をしていたからである。
 店の兄ちゃんは早速撮影の準備をしてくれた。小さないすに、白い毛皮のシートを敷き、赤ちゃんをそこに座らせた。
 赤ちゃんは不思議そうな顔をしている。
 撮影用のライトがまぶしいのか眉間にしわを寄せた。
 店の人は舌を鳴らしたりライターの火をつけたりして赤ちゃんの視線をカメラのほうに誘い、何枚か撮影した。
 撮影の間、赤ちゃんはなぜかずっとカメラを睨みつけていた。
 無事に撮影が終わり、先ほどのソファーに腰掛けて30分ほど待つと、現像が終わった。
 写真はとてもいい感じに取れていた。さすがプロである。
 写真は数枚あればよいのだが、10枚以上つけてくれた。
 料金は10000ウォンだった。
 あまりにも迷惑をかけたので、チップを渡そうとしたが、店の兄ちゃんは受け取ってくれなかった。押しが足りなかったのだろうか?

 赤ちゃんをしっかりとタオルで包んで写真館を出た。
 11月の風は結構寒かった。
 タクシー乗り場は町のはずれだと言っていた。赤ちゃんをしっかり抱えて、ごちゃごちゃと商店の建ち並ぶ大通りをまっすぐ歩いていった。
 商店の並びが途絶え、町のはずれに来たことがわかった。
 しかし、周りを見渡したが、どこにもタクシーの影はない。
 場所を間違えたかと思いゾッとしたが、通りの右手に停車所のようなところがあり、看板にハングルで“タクシー”と書いてあった。
 なんだか廃墟のようにも見えたので、「本当にここで待っていたらタクシー来るのかな?」と不安になった。
 5分待っただろうか?
 赤ちゃんを抱いた手がだるくなってきた。寒風も身にしみる。
 一度病院に電話してみようかと思ったそのとき、町の外から1台の車が走ってきた。
 待ちに待ったタクシーだった。
 タクシーは目の前で停まり、私は乗り込んだ。
 「チョンシムピョンヲン」というと車は走り出した。
 私はようやく安堵感を覚えた。



主体者との懐かしい対面

 赤ちゃんの写真を撮り終わり、どっと疲れて病室に帰ってくると、もうすでに主体者が到着して私を待っていた。
 2ヶ月ぶりの再会だった。
 一度8月に2日修に来てくれたとき以来だった。
 なんだか以前にも増して痩せてるように思ったのは気のせいだろうか?
 毎日、吉野家の牛丼とコンビニ弁当しか食べていなかったのかもしれない。
 主体者は、はじめて会う我が子に感激している様子だった。

 しかし、その感激に酔っている暇はなかった。
 翌日は赤ちゃんのパスポートを申請しに行かなければならなかった。
 パスポート申請には、ソウルの日本大使館まで行く必要がある。
 主体者はほとんどハングルが読めず、とても一人で大使館まで行けないため、誰か案内が必要だった。
 そこは顧客相談室の人が手配してくれ、世一旅行社を通して、アルバイトの韓日家庭のお姉さんが来てくれることになった。

 主体者は夜は修練所に泊まり、翌朝10時から世一のお姉さんと一緒に大使館へ向かった。
 そして夕方にはパスポート申請をして戻ってきた。
 その次の日の午後にはパスポートができるとのことで、主体者は次の日もソウルへ行った。
 もう道も分かるので一人で出かけていった。
 そして夕方頃、今度は赤ちゃんのパスポートを持って帰ってきた。
 ようやく手にした赤ちゃんのパスポート・・・。
 道のりは長かった。



いざ帰国

 赤ちゃんは生後16日目だった。
 生後間もない赤ちゃんを飛行機に乗せるのは心配だった。
 実家の父も、病床でそのことをとても心配していることを、母に電話して知った。
 大人でも離着陸のときに耳がおかしくなるのに、生後間もない赤ちゃんなら鼓膜が破れるのではないかと心配しているのである。
 そのため、父は「船で帰って来い」と言っているらしかったが、あまりにも大回りになり、時間も相当かかるため、かえって赤ちゃんに負担がかかるのは明らかだった。
 主体者は韓国に来る前にインターネットで、飛行機の赤ちゃんへの影響を調べてきてくれていた。
 それによると、それほど心配することはないらしかったが、それでも心配である。
 そこで主体者は、「離着陸の時にはミルクを飲ませよう。」と提案してくれた。タイミングよく飲んでくれればよいのだが・・・

 航空チケットは前の週に世一旅行社にお願いしており、日曜日に病院まで届けにきてくれていた。
 まだチケットを注文した段階で、本当に予定通りにパスポートが取得できるか分からなかったため、世一の人は日にちを変えられるチケットにしてくれた。
 また、世一の金さんに電話すると、空港までの交通手段についても相談にのってくれた。
 ちょうど帰る日が40修の終了日の翌日だったため、修練所から出るバスがあるかもしれないとのことだった。
 ただ、夕方の便で昼過ぎに病院を出るため、時間が合うかが問題だった。
 結局、バスではないが、40修で帰る人たちと一緒にタクシーに乗ることになった。子連れでのるにはそのほうが好都合だったのでラッキーだった。
 帰国当日、病院の前までタクシーが来てくれた。すでに修練所のほうから4人ぐらい乗ってきていた。はじめに聞いていた人数より多かったので、多少料金が安くなった。

 そして、ついに100日以上お世話になった清平の地を離れ、帰国の途についた。
 なんだか本当に離れがたい思いと、これから押し寄せてくるさまざまな試練のことを思い複雑な気持ちだった。
 タクシーの中では揺れが心地よいためか、赤ちゃんはおとなしく寝ていた。
 一度空腹のために泣いたが、外から見えないようにして母乳をあげたらすぐおとなしくなった。
 仁川空港へは予定よりも早く着いた。2時間半ぐらいだっただろうか。
 大量の荷物をカートに載せると、航空会社のカウンターに向かった。平日だったため、人ごみはなかった。
 カウンターの女性にパスポートを渡すと、出入国管理事務所に行ってくださいと言われた。ビザが切れていたのだ。
 通常、ビザが切れた場合罰金を取られるが、ちょうど外国人不法労働者の追い出し期間にあたっていたため、罰金は取られなかった。
 空港内の出入国管理事務所で書類を書いて手続きを済ませた後、再度航空会社のカウンターに戻って発券してもらった。赤ちゃんがいるため、ベビーベッドの取り付けられるスクリーン前の座席にしてくれた。
 手続きが終わり荷物を預けると、やっと一息つくことができた。まだ飛行機の時間まで2時間近くある。
 まず、赤ちゃんのオムツ換えである。一度タクシーのトイレ休憩中に交換したが、それから時間が経っていた。
 私は近くのトイレに入り、洗面所の前にあったベビーシートでおむつ交換しようとすると、ちょうどトイレ掃除に来たおばちゃんが、ベビールームに案内してくれた。
 ベビールームには、オムツ交換用のベッドがいくつか置かれており、奥のほうには授乳室もあった。
 子供ができる前は、ベビールームの存在自体気にもならなかったが、本当に子連れにとってはありがたい施設であることを実感した。
 その後、赤ちゃんが泣くたびに何度かこのベビールームを利用した。

 搭乗の1時間前になり、出国ゲートをくぐった。
 出国審査では、赤ちゃんにも出国カードが必要とのことで、検査官の指示で出国カードを記入する手間がかかった。検査官は赤ちゃんの小ささにびっくりしていたが、特に何もなく通してくれた。

 搭乗ゲートで待っている間、赤ちゃんはおとなしく寝ていてくれた。
 赤ちゃんが次に目を覚ましたのは、飛行機に搭乗し、離陸する直前だった。
 赤ちゃんは大声で泣き出した。
 飛行機の中で母乳をあげるのは抵抗があるため、病院で哺乳瓶に入れてきた水を温めてもらい、粉ミルクを溶かすことにした。
 スチュワーデスさんにお願いすると、哺乳瓶を湯煎で温めてくれた。
 ミルクの準備をするのに時間がかかったため、しばらく赤ちゃんは泣きつづけてひんしゅくを買ったが、離陸までにはミルクが間に合い、赤ちゃんは泣きやんだ。
 そして本当ありがたいことに、赤ちゃんは離陸中、ずっとミルクを飲んでいてくれた。
 飛行が安定すると、スチュワーデスさんが前の壁面に赤ちゃんを寝かせられる籠を取り付けてくれた。
 ミルクを飲み終わった赤ちゃんは、籠の中で昏々と眠りについてくれた。
 その後、赤ちゃんは成田に到着するまで一度も目を覚ますことはなかった。

 成田に到着したのは夜9時に近かった。
 飛行機を降りてからすぐに授乳室マークのあるトイレに駆け込み、オムツ交換と授乳を行い、授乳が終わるまでに30分近く経過していた。
 主体者はトイレの外で待ちくたびれていた。
 その後ようやく荷物を受け取り税関を通過し空港ロビーに出た。
 家は京成線江戸川駅から近いので、京成線で帰るのが常だった。
 都合のよい特急があればよかったが、夜はもう特急がなく、普通電車と快速とスカイライナーしかなかった。
 私たちは快速に乗った。スカイライナーだと青砥まで行った後、普通電車で3駅逆戻りしなければならない。また、空港の駅のホームに先に到着するのは快速だった。
 しかし、電車の乗って少しして、選択を誤ったことに気がついた。
 快速といっても、津田沼ぐらいまでずっと各駅停車だった。
 ものすごく時間がかかるうえ、駅に着くたびにドアから冷たい風が入ってくるので、赤ちゃんにはかなり負担がかかった。赤ちゃんの顔色も、悪くなった気がした。

 やっとの思いで家にたどり着いたのは夜11時過ぎだった。
 もうクタクタだった。



帰国後に起こったこと

 40修に2度目の参加を決意した後に書いた、清平にいることを知らせる手紙が引き金となって、それまでいい感じになってきていた両家の親との関係がめちゃくちゃになってしまっていた。
 しかし出産後は、絶対善霊の協助あってか、親たちも冷静になってくれて、主体者のお母さんが善意で帰国翌日から泊まりで手伝いに来てくれた。
 はじめは裏がある気がして恐ろしかったが、実際来て一緒に生活してみると、決してそうでないことが分かった。
 主体者の実家は金沢のため、主体者のお母さんとはそう頻繁に会うわけでもなく、これまでそんなに話しをしたことはなかった。それが、これを機会にいろいろお互いのことを知り合うことができた。
 私の母も、しばらくは脳血栓で入院した父の看病で大変だったが、父が無事退院して落ち着いた頃に手伝いに来てくれた。
 まだまだどちらの親も、教会に対しては厳しいけれど、清平ゆえに壊れた関係はほとんど修復されつつあり、さらに、清心病院で生まれた孫ゆえにさらに深い関係を築きつつある。
 私の出産と同時に脳血栓になった父も一時は大変だったみたいだが、幸い大事には至らず、いまはかなり回復し、普通に生活している。
 やはり、神側の事情を優先して失ったものに対して、神様はそれ以上の恵みを与えてくださるのであろう。

 こうして清平を通して与えられた全ての恵みに対して、応えていくことのできるよう、今後がんばっていきたい。



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